2014年7月24日木曜日

父が亡くなりました[2014/7/20]

 朝5時を少し回った頃でしょうか、母に叩き起こされました。
 病院から連絡があり、今すぐ来てくれ、とのこと。

 この段階にもなってまだ、今日の飛行機で戻れるだろうなーと言う事に全く疑いをしませんでした。
 だって、昨日あれだけ話して、食べて、笑ったんですから。

 戻ってくる暇が無いかもしれないから、と、持ち帰る荷物のトランクを車に積み込み、病院に向かいます。
 私は10年来運転してませんでしたから、弟が運転する車に乗り込みました。

 自宅から病院までは、車を飛ばして1時間ちょっとかかります。弟の車で病院に向かいながら、さっさと顔を見て安心したいという思いが強くなっていました。
 到着するやいなや、母の車に乗っていた祖父と祖母を連れ、父の病室に向かいました。
 急いで行きたいのに、のんびりと歩く祖父にかなり苛々させられました。
 
 駐車場から5分もかからなかったと思います。到着したのはここ一週間毎日通って見慣れた廊下と
見慣れた病室でした。



 違っていたのは、心電図のバイタルには「0」とだけ表示されていたこと。
 血中酸素も、脈拍も、血圧も、なにも表示されてはいませんでした。
 




 きっと処置をするためにセンサーを取り外したんだ、そうに違いないと思いました。普段自宅で寝ているように
口を半開きにして寝る父を見て、何かの冗談じゃないのかとさえ感じました。

 みんな来たんだから、私だって来たんだから、さっさと起きてくれよ。じゃないと飛行機間に合わなくなっちゃうよ。
 そんな事を能天気に、本気で考えていました。




・・・・2014年7月20日 7時0分 死亡確認。
医者から現実を突きつけられてはじめて、状況を飲み込んだ自分がいました。





 ふざけないでくれよ、と本気で腹が立ちました。
 8月の中旬には仕事も辞めて、部屋も片付けて戻ってきて、そしたら1週間、2週間なんてケチなことを言わずに、
朝から晩まで毎日ついていてやれるからねーってそんな話もしていたのに。


 次戻ってくる時の土産は何がいい?なんて話してたのに。
 仮退院許可が出たら、どこに行きたいねーなんて話して、ホテルまで一緒に探していたのに。


 全部ぶち壊して勝手に逝った父に、本気で腹がたちました。
 29年親子をやってきて、初めて本気で腹がたちました。



母も、祖母も泣きました。何で一人で逝くのかと、怒ってさえいました。
今日もおはぎが食べたいと言っていたじゃないかと、先に到着していた母方の従兄弟も泣きました。

しばらくして父方の従兄弟も到着し、みんなで泣きました。


私は泣きませんでした。
きっと母のほうがずっと辛いと思ったから。
他界する前日、つまり昨日、母は用事があって、病室までは来ませんでした。

当然でしょう。私の話を聞いたとき、普段よりずっと調子がいいと思っていたんですから。

きっと、後悔もあったんだと思います。
そういう意味でも、私より、ずっと辛いだろうと思っていました。

しばらくして、看護婦さんが「体を綺麗にしますので、しばらくお待ちくださいね」と
家族一同を談話室に案内しました。

10分少々たったころでしょうか、普段使っているバッグを病室に忘れてきたことに気づき、取りに戻ると、
ちょうど父が体を拭いてもらっている最中でした。

看護婦さんが「されますか?」とおしぼりを渡してくださいましたので、手と足をそれぞれ拭かせてもらいました。
さっきまでほのかに暖かかった父の体は、徐々に冷たくなっていました。

枕カバーにと、昨日私が敷いたタオルが背中のあたりから出てきました。
タオルはまだあたたかくて、これが父の最後のぬくもりなのかと思うと、じわりと涙がにじみました。

しばらく涙をこらえながら、黙々と父の体を拭いていると「ご家族の方に綺麗にしてもらって良かったですね~」と
看護婦さんが話しかけられていました。
何かを話すとわめき散らしそうで、笑って会釈するのが精一杯でした。

ある程度からだを掃除すると、新しい病衣をご用意しますね、との事で、私を残して看護婦さんが部屋から出られました。



泣きました。私一人で泣きました。社会人になって初めて、声をあげて泣きました。
もうこらえなくても良いんだ、というのもあったのでしょうが、肉親を失うことがこんなにもくるものだとは思いませんでした。


その後、病理解剖についての同意書にサインしました。
理由は、きっと父もここまで苦しんだ理由をきちんと知りたいと思ったから。

なぜ抗がん剤がほとんど効果を成さなかったのか、その理由も含めて、頑張って闘病していた証を残してあげたかったし、
人を喜ばせるのが好きだった父の事です、誰かの役に立つというのなら、病理解剖を望むだろうとも考えましたから。


当初、病理解剖は2時間程度で済む予定でしたが、予想外にがんが進行していたことが分かり、病院を出ることが出来たのは、
病理解剖開始から約4時間後、午後3時30分でした。


霊柩車には、私が父と一緒に乗りました。
帰り道、景色を見ながら色んな事を思い出していました。もう忘れていたと思ったことさえも思い出していました。
当然といえば当然です。大学病院から自宅までの道は、母方の祖母の家に遊びにいくのにとても良く通った道なのですから。

家までは1時間30分ほどかけて到着しました。棺を降ろし、仮通夜が始まりました。
父方の従兄弟が先に自宅に戻り準備をしていたため、帰宅すると沢山の親族が既に集まっていました。
4~5人で、私と弟も混じり、父の棺を霊柩車から降ろし、家の中に運び込みました。

ここから、料理を用意したり、焼香に来てくださった方にご挨拶をしたりと走り回っていましたが、正直良く覚えていません。
ただ、慌しく動き回っている間は、落ち込む暇がありませんでしたから、ある意味目を背けていたのかも知れません。

最後のご焼香の方が22時過ぎに帰られ、家には私たち家族と母方の従兄弟、父方の従兄弟が残りました。
少しでも人が多いほうが良いだろうと、自宅に泊まっていって下さいました。


私といえば、少しぼーっとすると病院での出来事がフラッシュバックしてくるのに耐えられず、絶えず動くか話していました。
滅茶苦茶に動いたからでしょうか、その日も泥のように眠りました。

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