2014年7月24日木曜日

父が亡くなりました[2014/7/22]

 朝になりました。5時くらいだったでしょうか、母がホールのほうにやってきて、私たち兄弟を叩き起こしました。
 何事かと思えば、歯ブラシを買って来い、だそうです。

 自宅に忘れてきてたんですね。まぁこんな非日常な出来事の最中ですから、仕方が無いのかも知れませんが。
 
 私が近くのコンビニまで行き、人数分の歯ブラシを買ってきました。
 ついでにと、栄養ドリンクも買ってきました。この状況で誰かに倒れられてはたまりませんから。

 9時30分くらいから、今日の流れについて説明を受けました。ですが、正直良く覚えていません。
ただ、親族代表挨拶は私がやることになったのだけは、覚えていました。

 玉串奉奠とプログラムが徐々に進み、いよいよ私の親族代表挨拶になりました。
 
 本日はお暑い中、お集まり頂き有難う御座います・・・・
 
 
 
 
 きちんと言えたのはここまででした。
 
 
 
 その先に「7月20日 7時0分に58歳でその生涯を・・・」が目に入ったとき、最後に話したこと、食事をしたこと、そして死亡診断を受けてから今日までのこと、何より、これを読み終わったら父の体はこの世から消えてしまうんだということ。
それらがごちゃ混ぜになって頭の中を駆け巡り、涙と嗚咽を抑えることが出来ませんでした。

 涙でかすんで用意していた原稿がろくに読めない中、これが私が出来る、父への最後の親孝行なのだと自分を奮い立たせ、何とか最後まで読もうとは考えているのですが、ちゃんとするという事がどういう事なのか、良く分からなくなっていたように思います。

 父が死んだ。言葉にすればなんてことは無いのですが、これを口に出して、声に出して言うことが、こんなにも辛い事だとは全く考えていませんでした。

 その後、嗚咽も絶え絶えに地区の方々への謝辞も読み上げ、椅子に戻ったのですが、その後棺を開けて花を入れるまでのところは、正直良く覚えていません。
 ただ、母に背中をさすられていたのだけは覚えています。
 
 気がついたら、棺を開けて花を入れていました。
 元々花が好きでしたから、たくさんたくさん入れました。
 
 庭で作っていたぶどうも、時期にはまだ早いとは思いましたが、ふた房入れました。
 本当なら、私が神奈川に一度戻る前に食べるはずだったおはぎも入れました。
 
 自宅で印刷してきた写真も入れました。帰省したとき、皆であちこち旅行して撮影した写真で、撮影者は私。カメラをされている方なら分かると思いますが、どこで、何があって、どういう気持ちでシャッターを切ったのか、全部覚えていました。
 父が撮影していたフィルム写真はネガが67ということもあり、焼き増しする時間はありませんでしたので、スキャナで取り込めるだけ取り込んで、それをプリンタで出力して入れました。

 皆が写真の裏に、父への手紙を書いてくれました。母が最初に始めたのですが、それが次第に広まり、従兄弟のお子さんまで書いてくれました。

 私は、書きませんでした。必要ないと思いましたから。
 私にとっては、撮り溜めた写真の一枚一枚がメッセージそのものでした。
 一緒に家族旅行に行って楽しかったこと、全然知らなかった風景を見れたこと、思うように撮影出来ずもどかしかったことなど、そんな思い出そのものであり、そのときの気持ちをしたためた日記と同じようなものでした。
 
 これ以上に言葉で書けることなんて、私は持ち合わせていないと思いました。
 だから、手紙は書きませんでした。
 
 棺にしがみついて号泣する母の背中をさすりながら、嗚咽をこらえるのに必死でした。
 
 いよいよ火葬場に向かう時間となりました。母が父の棺と一緒に霊柩車に、私と弟が骨壷と遺影を持って先導車に乗り込みます。
 
 長いクラクションの後、火葬場に向けて車が走り出しました。
 といっても、この道も通いなれたもので、馴染みのある道。父の仕事を手伝ったことや、釣りに行ったことなどが思い出されました。

 10分ほどで火葬場に到着しました。私は父の遺影を抱え、車を降り、母の乗る霊柩車を待ちました。
 外は、絶好の釣り日和といわんばかりの快晴で、空を仰ぎながら「天気でよかったね」と思いました。
 
 何が良かったのか良く分かりませんが、まぁ、雨降りよりは良いでしょうと(笑)。
 
 
 しばらく待つと、母の乗る霊柩車がやってきました。どうも途中にあった工事現場の片側通行に引っかかったようでした。
 
 皆が集まり、最後の玉串奉奠が始まりました。これで、本当に最後なんだと思いました。
 今度は泣きませんでした。涙はたまっていましたが(笑)
 
 
 玉串奉奠が終わり、父の棺が炉にうつされました。
 
 本来ならば、喪主が点火スイッチを押すのでしょうが、それだけはさせたくありませんでした。
 これ以上母一人に父の幕引きをさせるのは、あまりに酷だと思いました。
 
 だから、絶対にさせたくはありませんでした。
 
 なので、私と弟二人で、一緒にスイッチを押し込みました。
 
 
 目は、閉じませんでした。
 不思議と、何の感情も抱きませんでした。
 
 
 その後、斎場に戻り、精進落としの席になりましたが、料理の数が足りなかったりやらトラブルがあり、正直あまり感傷にふけっている余裕は無かったように思います。
 ただ、これ以上もう泣くまい、とは思いました。

 午後2時20分、お骨あげに火葬場へ戻ります。
 焼きあがってきた父の体は、とても小さくなっていましたが、元々骨太だったこともあり、とてもしっかりと残っていました。
 
 
 
 ただ、肺がんだった父は、それを訴えるかのようにがんのあった場所の骨は、痛々しい位に色が変わり、ボロボロになっていました。
 胸骨も、殆ど残ってはいませんでした。
 
 私と母二人で、最初のお骨をあげました。
 それから、弟と私で指示されたお骨をひとつずつ、あげました。
 
 その後は、火葬場に来てくださった親族の方々で、父のお骨をあげました。
 20人以上、いたと思います。皆さん、箸を手に父のお骨をあげてくださいました。
 
 最後に喉仏をおさめ、頭蓋骨で蓋をして、終わりました。
 本当に、本当に小さくなってしまったなぁと、そんなことを考えながら、遺影を抱えて斎場を出ました。
 
 
 その後、納骨のため、お墓まで向かいました。
 私と弟は皆とは違う道でお墓を目指しました。少し遠回りになっても、別の道でお墓に向かいました。
 
 皆より、神主さんより少し遅れてお墓に到着しました。
 何故遅かったのか?と聞かれて「家の前を通ってやりたかった」と答えると、誰も何も文句は言われませんでした。
 
 
 玉串奉奠の後、納骨となりました。
 あげたばかりの父のお骨の入った骨壷は、まだぽかぽかと温かかったです。
 
 骨壷は、私が入れました。
 お墓に骨壷を納め、扉を閉めました。
 
 これで、本当に、本当にすべてが終わりました。
 
 最後に自宅に戻り、お茶を振る舞い、ひとり、また一人と親族が帰っていき、ついに私と弟と母だけが残されました。
 少し遅れた昼食のせいもあり、夕食を少しだけとり、床に就きました。
 
 


 葬儀が終わって、2日が経ちました。
 私にとっては、父も母もいないのが日常の当たり前の光景でしたから、まだそこまで実感できていないのか、あまり普段の生活を送るうえで、落ち込んだりすることはそこまで無い様に思います。
 
 先日、病院から戻ったときの荷物を整理している中から、小さなノートというか、メモ帳のようなものを見つけました。
 紙のすみは何度も折られ、少し黄ばみかかっていたノートですが、そのノートには見覚えがありました。
 
 それは、父の病室の枕元に、ボールペンが添えられていたノートでした。
 闘病中、私は中を見たことはありませんでしたから、何を書いているのか気になり、ぱらぱらとめくってみました。
 
 
 内容は、6月ごろからの毎日の記録でした。飲んだ薬などが細かく書かれていました。
 「○月×日 天気 くもり」などと書かれていて「小学生の日記かよ(笑)」と少し笑いました。
 
 ただ、内容は日を追うごとに短くなり、最後は日付も満足に書かれておらず、ページが飛んだり、最後のほうに書かれたり、ノートの裏に書かれていたりしていました。
 
 「今日は調子いい」
 
 「痛くてたまらん」
 
 「○○さん、もうだめ」
 
 「ありがとう」
 
 そんな言葉が、ページをめくるごとに乱雑になっていく字で、綴られていました。
 特に一部の文字は、ギリギリ判別できるような状態で書かれていました。
 
 父はそこまで達筆なほうではありませんでしたが、子供からみても雑に字を書くことは決してしませんでした。
 痛い、きつい、辛い、そんな言葉を愚痴っぽくこぼしたことはあっても、弱気な言葉は何一つ家族には言わなかった父が、どれだけ辛い思いをしていたのか、痛いほど分かりました。
 
 幸い、そのノートをみつけたのが私一人であったこともあり、声を出して泣きました。
 誰に見られるわけでもない、そう思って、遠慮もせずに泣きました。
 
 母には、ノートの存在は伝えていますが、すべて事が落ち着いて、それから読むように言っています。
 でも、必ず読んでほしい、とも言っています。
 
 
 この一週間何があったのか、自分の中で整理をつけるためにと、コレをずっと書いてきました。
 綴っていく中で、フラッシュバックしてくる光景と、最後に父と過ごした時間が鮮明に思い出され、何度か涙したこともありました。
 
 22日の出来事を書き始める前に、何度も何度も、こんなに辛いならもう書くのをやめてしまおうと思いました。
 ファイルを閉じて、Delキーを押せば、ハイお終いです。このファイルが存在した事だって、誰も知らないのですから、誰にとがめられるわけでもない、だからこんなに辛いなら、もう書くのをやめてしまおうと思いました。
 
 ただ、最後に父と話をしたのは私なのですから、これを書けるのも、残せるのも、やっぱり私なのだと思いました。
 そう思って、ここまで書いてきました。
 
 
 事務的な手続きやら、まだまだやる事も多く、毎日奔走している日々ですが、何とか立ち直りそうです。
 弟は弟で、何か明るい話題を提供したいと、落ち込む祖父母と母を元気付けたいと思ったのでしょう。
 
 あと5年以内に結婚してみせる!と宣言していました(笑)。
 
 それが本気かどうかともかくとして、葬儀後、はじめて祖父母の笑顔が見れた瞬間でした。
 
 
 まぁその煽りが私にまで来たのはチト困っておりますが(笑)。
 
 ただ、孫も抱かせてやれず、逝かせてしまったのは、それはそれでやっぱり後悔もしています。それはきっと弟も同じなのでしょう。だからあんなことを言ったのかな、とも思っています。
 
 元々趣味人間な私ですが、そろそろ本気で身を固めることも考えなければいけないのかなぁ。
 でもそもそもこんな趣味人間についてくる人なんか、いるんかいな(笑)。
 
 ただ、いずれ来るであろう母のそのときに、全く同じ理由で、孫を抱かせてやれなかったことで後悔はしたくない、と思っているのも事実です。それは、後悔という形で、父が私に最後に教えてくれたことのひとつである、とも思っています。
 
 今回、いろんな事を学びました。
 仕事一辺倒で無かった父、多趣味だった父、好きなことを好きなようになっていた父。
 
 でも、まだまだやりたかった事も多かったことと思います。
 
 だから、私も惰性で毎日を過ごすことはせず、やりたいと思ったことは本気でやろうと思っています。
 それは、仕事であれ、趣味であれ、多岐に渡りますが、端から諦めていたことも少なくありません。
 
 でも、やりたいんだったら、だったらやろうと思っています。
 
 ここ数日の出来事を、そのときの感情だけで、とりとめもなく綴ってきました。
 乱筆乱文ではありますが、メッセやメールで励ましてくださった方々への、近況報告とさせてください。
 
 
 次回からは、またたっぷりこってり趣味な内容が載った、ダメ人間満載の日記になると思いますが(笑)

父が亡くなりました[2014/7/21]

 通夜の日になりました。正直、朝起きて父の棺を見ても、顔を見ても、全く実感が沸きませんでした。
 その間にも、昨日来られた方がご焼香に来てくださいました。母は涙も見せずに挨拶していました。

 私といえばその間に、遺影に使う写真と、葬儀中に流す写真を用意していました。
 といっても、帰省するまでこんなことになるなど、全く予想してはいませんでしたから、写真など用意はしていませんでした。

 なので、実家に置いていった古いXPマシンや、外付けHDD、もう使わなくなったノートPCなどをひっくり返し、
あるだけの写真をかき集めました。
 集まった写真は延べ25枚。その中からどの写真を遺影にしようか、という話になり、親族一同集まってみんなで見ていきました。
その中の一枚に、愛犬を抱いて、笑っている写真がありました。
 父の格好と言えば昔から容姿にはあまり気を使わない人でしたから、髪はボサボサだし、服装は固まったセメントのこびりついた
作業服に、黄ばんだタオルを首にかけているという、お世辞にも立派とは言えない格好でしたが(笑)、屈託なく笑っているその顔と
作業着に身を包んでいる姿がいかにも父らしいということで、満場一致でその写真を使うことに決まりました。

 その後、私と弟二人で、父が入る予定の墓を掃除することを思いつきました。別にどちらから言い出したわけでもありません。
お墓への道は、先日草払いがあったのでしょう、枯れた草と葉っぱが大量に積もっていました。持ってきた箒で綺麗に掃き、
一時間ほどかけて掃除しました。

 午後3時くらいだったでしょうか、葬儀社の方が父の棺を迎えに来られました。
 これでもう、父が我が家に戻ってくることはありません。
 


 葬儀社の方が運転する霊柩車は、クラクションを鳴らし、ゆっくりと斎場に向かい始めました。

 午後4時、斎場に到着し、通夜の段取りを説明されました。
 しばらくすると、私の友人が鹿児島から、父の訃報を聞き、駆けつけてくれました。

 事後報告でも構わないかなーと思っていましたから、通夜に顔を出してくれると聞くまでは、まさかわざわざ鹿児島から宮崎まで
来てくれるとは思っていませんでした。どう言葉をかければ良いか分からない、と言ってくれた友人の、そんな優しさに心から
感謝しました。

 午後6時、通夜が始まりました。後から後から、線香をあげに来てくださいました。私が知らない方も沢山いらっしゃいました。
 その数は200人以上でした。当初お返しの品を150もあれば十分であろうと構えていたのですが、途中で追加してギリギリと
いう状況でした。

 祖母の手をとって泣いてくれる方
 母と一緒に父の顔を見て「寝ているようにしか見えない」といって涙してくださる方
 父と20年来の付き合いのある方

様々な方が来られましたが、皆一様に一緒に悲しんで下さいました。

 しばらくすると、突然土砂降りの雨になりました。天気予報では雨が降るなど出ていませんでしたから、驚きました。
 斎場にいても、斎場の屋根をたたくのが分かるほどの雨でした。

 あとから聞いたのですが、その雨は斎場周辺と母の実家の近くだけしか降っていなかったそうです。
 斎場からほとんど距離のない従兄弟の自宅周辺(2キロも無いです)も、全く降っていませんでした。
 
 母と「あの雨は、涙雨だったんだろうね~」と話しています。

 その日は21時前後で通夜が終了し、私たちは斎場に泊まることになりました。


 母は祖父母と従兄弟と一緒に別室で休んでいましたが、私たち兄弟は父の棺が置かれている、ホールの方で休むことにしました。

 しばらく取りとめもない話をしていました。
 父の遺体がすぐそばにありましたが、線香をあげるたび、顔をみても「ただ寝ているんだ」としか思えませんでした。
 化けてでもいいから出てきてくれないかな~とも思いました。父と話したいと本気で思いました。

 もう少し現実を見るべきでした。明日には父の体はこの世から消えてしまうことを、もう少し考えるべきでした。
 そのことを実感したのは、翌日、式の最後の最後になってからでした。

父が亡くなりました[2014/7/20]

 朝5時を少し回った頃でしょうか、母に叩き起こされました。
 病院から連絡があり、今すぐ来てくれ、とのこと。

 この段階にもなってまだ、今日の飛行機で戻れるだろうなーと言う事に全く疑いをしませんでした。
 だって、昨日あれだけ話して、食べて、笑ったんですから。

 戻ってくる暇が無いかもしれないから、と、持ち帰る荷物のトランクを車に積み込み、病院に向かいます。
 私は10年来運転してませんでしたから、弟が運転する車に乗り込みました。

 自宅から病院までは、車を飛ばして1時間ちょっとかかります。弟の車で病院に向かいながら、さっさと顔を見て安心したいという思いが強くなっていました。
 到着するやいなや、母の車に乗っていた祖父と祖母を連れ、父の病室に向かいました。
 急いで行きたいのに、のんびりと歩く祖父にかなり苛々させられました。
 
 駐車場から5分もかからなかったと思います。到着したのはここ一週間毎日通って見慣れた廊下と
見慣れた病室でした。



 違っていたのは、心電図のバイタルには「0」とだけ表示されていたこと。
 血中酸素も、脈拍も、血圧も、なにも表示されてはいませんでした。
 




 きっと処置をするためにセンサーを取り外したんだ、そうに違いないと思いました。普段自宅で寝ているように
口を半開きにして寝る父を見て、何かの冗談じゃないのかとさえ感じました。

 みんな来たんだから、私だって来たんだから、さっさと起きてくれよ。じゃないと飛行機間に合わなくなっちゃうよ。
 そんな事を能天気に、本気で考えていました。




・・・・2014年7月20日 7時0分 死亡確認。
医者から現実を突きつけられてはじめて、状況を飲み込んだ自分がいました。





 ふざけないでくれよ、と本気で腹が立ちました。
 8月の中旬には仕事も辞めて、部屋も片付けて戻ってきて、そしたら1週間、2週間なんてケチなことを言わずに、
朝から晩まで毎日ついていてやれるからねーってそんな話もしていたのに。


 次戻ってくる時の土産は何がいい?なんて話してたのに。
 仮退院許可が出たら、どこに行きたいねーなんて話して、ホテルまで一緒に探していたのに。


 全部ぶち壊して勝手に逝った父に、本気で腹がたちました。
 29年親子をやってきて、初めて本気で腹がたちました。



母も、祖母も泣きました。何で一人で逝くのかと、怒ってさえいました。
今日もおはぎが食べたいと言っていたじゃないかと、先に到着していた母方の従兄弟も泣きました。

しばらくして父方の従兄弟も到着し、みんなで泣きました。


私は泣きませんでした。
きっと母のほうがずっと辛いと思ったから。
他界する前日、つまり昨日、母は用事があって、病室までは来ませんでした。

当然でしょう。私の話を聞いたとき、普段よりずっと調子がいいと思っていたんですから。

きっと、後悔もあったんだと思います。
そういう意味でも、私より、ずっと辛いだろうと思っていました。

しばらくして、看護婦さんが「体を綺麗にしますので、しばらくお待ちくださいね」と
家族一同を談話室に案内しました。

10分少々たったころでしょうか、普段使っているバッグを病室に忘れてきたことに気づき、取りに戻ると、
ちょうど父が体を拭いてもらっている最中でした。

看護婦さんが「されますか?」とおしぼりを渡してくださいましたので、手と足をそれぞれ拭かせてもらいました。
さっきまでほのかに暖かかった父の体は、徐々に冷たくなっていました。

枕カバーにと、昨日私が敷いたタオルが背中のあたりから出てきました。
タオルはまだあたたかくて、これが父の最後のぬくもりなのかと思うと、じわりと涙がにじみました。

しばらく涙をこらえながら、黙々と父の体を拭いていると「ご家族の方に綺麗にしてもらって良かったですね~」と
看護婦さんが話しかけられていました。
何かを話すとわめき散らしそうで、笑って会釈するのが精一杯でした。

ある程度からだを掃除すると、新しい病衣をご用意しますね、との事で、私を残して看護婦さんが部屋から出られました。



泣きました。私一人で泣きました。社会人になって初めて、声をあげて泣きました。
もうこらえなくても良いんだ、というのもあったのでしょうが、肉親を失うことがこんなにもくるものだとは思いませんでした。


その後、病理解剖についての同意書にサインしました。
理由は、きっと父もここまで苦しんだ理由をきちんと知りたいと思ったから。

なぜ抗がん剤がほとんど効果を成さなかったのか、その理由も含めて、頑張って闘病していた証を残してあげたかったし、
人を喜ばせるのが好きだった父の事です、誰かの役に立つというのなら、病理解剖を望むだろうとも考えましたから。


当初、病理解剖は2時間程度で済む予定でしたが、予想外にがんが進行していたことが分かり、病院を出ることが出来たのは、
病理解剖開始から約4時間後、午後3時30分でした。


霊柩車には、私が父と一緒に乗りました。
帰り道、景色を見ながら色んな事を思い出していました。もう忘れていたと思ったことさえも思い出していました。
当然といえば当然です。大学病院から自宅までの道は、母方の祖母の家に遊びにいくのにとても良く通った道なのですから。

家までは1時間30分ほどかけて到着しました。棺を降ろし、仮通夜が始まりました。
父方の従兄弟が先に自宅に戻り準備をしていたため、帰宅すると沢山の親族が既に集まっていました。
4~5人で、私と弟も混じり、父の棺を霊柩車から降ろし、家の中に運び込みました。

ここから、料理を用意したり、焼香に来てくださった方にご挨拶をしたりと走り回っていましたが、正直良く覚えていません。
ただ、慌しく動き回っている間は、落ち込む暇がありませんでしたから、ある意味目を背けていたのかも知れません。

最後のご焼香の方が22時過ぎに帰られ、家には私たち家族と母方の従兄弟、父方の従兄弟が残りました。
少しでも人が多いほうが良いだろうと、自宅に泊まっていって下さいました。


私といえば、少しぼーっとすると病院での出来事がフラッシュバックしてくるのに耐えられず、絶えず動くか話していました。
滅茶苦茶に動いたからでしょうか、その日も泥のように眠りました。

父が亡くなりました[2014/7/19]

今日も病院に向かいます。いつものようにバスを乗り継いで・・・だったんですが、
待てど暮らせど普段乗るバスが来ません。
 しばらくして、今日が土曜日であることに気づき、休日ダイヤで確認すると・・・・
 
えーっと、バスいないです。ハイ。
次のバスは・・・・50分後!?いくらド田舎とは言え、バスターミナルでこれはねーでしょ(笑)

 えらく困り果てたんですが、普段と同じルートで移動すると1時間以上遅くなってしまうため、
いつもと違うバスで移動することに。宮交さん、タダでさえ少ないバスをさらに減らさないでくださいよ。。。

 病院に到着するやいなや、親父と話すと「映画を観たい」と。明日の飛行機で戻る予定で、
その前に一度祖母の顔も見たいと思っていましたので、今日一度病院についてから、祖母の病院にも向かおうと
思っていました。
 幸い、病室にBDプレーヤーを買ってあったので、ベット脇にセッティング。
 何か欲しいものがある?と聞いたら、「おはぎを食べたい」とのリクエストがありましたので、
買ってくるねと話して、病室を出ました。

 祖母の顔をみて、昼食を済ませて病室に戻ります。昨日からあまりたんぱく質を食べたがらなかったので、
豆乳なら飲めるかな、と豆乳飲料も買ってきました。
 買ってきたおはぎ自体はとても大きかったですから、恐らく残すだろうなーと思っていたんですが、
そんな心配などどこ吹く風で、きれいに完食。横で見ていた私のほうが驚かされましたよ。

 その後少し休み、「アイスが欲しい」と話していたので、コンビニまで行くことに。
 前回買ってきたときに、エッセルのスーパーカップは多すぎるようだったので、ハーゲンのサイズなら食えるだろうと
バニラ味を購入。

 量もそこまで多くありませんでしたから、これまたしっかり完食。
 午後6:00になりましたので、父の夕食の世話をし、私は帰宅することにしました。

 明日飛行機に乗る前にちょっと寄るね、と話をしたら、またまたおはぎをリクエストされました。
 どんだけおはぎ好きなんだこの人は(笑)。

 昼食も夕食も結構食べていたこともあり、明日の飛行機で一度神奈川のアパートに戻れることに
露ほどの疑いも抱かず、引越しの段取りと退職の手続きをどう進めようかなぁなどと考えながら、
この日は早めに床につきました。
 相変わらず、暑苦しい夜でしたが、ここ最近の移動疲れもあり、すぐに眠りこけました。