2015年12月13日日曜日

祝!ぱじぇみー1歳!

今日はめでたい!いやぁめでたいですよ!!
ぱじぇみーが我家にきて、ついに1年が経ちました!!

オイル泥水事件やら、燃費最悪やら色々ありましたが、とりあえず大きなトラブルも無く 無事1歳を迎えられましたよ~!

てなわけで、 ぱじぇみー1歳企画!何かしよう!と考えたのはいいんですが。。。
何を、しようかと。。

 オイル交換はまだ予定が先だし、全塗装するような資金も無い。
どっかに旅行!ってのも考えたんですけど、 それも何かありきたりというか。。。

で、色々考えた結果、こーなりました!!
はい、えー、ホイール変えましたよ!ホイール!!
アーバンスポーツSVを履かせました!


どぎつい規格と商品選び

しかしながら、見つけるまでは結構大変でしたね。というのも、パジェロミニ、軽のくせにビックキャリパーを採用しているもんだから、単純にカタログスペックの数字だけ鵜呑みにすればいいというものでもなくて、ヘタに選ぶと「わぁお!つけらんないぜ!!」なんて事もザラ。。。

この辺りは、互換パーツが潤沢にあるジムニーさんが大変うらやましくあります。。。

結局、某店舗で散々会話した結果、「これならいけるんじゃないか」と選んだのがアーバンスポーツSV。
方針として、インチアップなし、限りなく純正チックなんだけど、でもどこか純正じゃない、そんな感じに仕上げたいと決めていたんですが、まぁ、当初の目標は、兼ね達成出来たかなーと思います。

で、終わればよかったんですが。。。
何と作業中に店員がミスって、後ろホイール2本にガリキズをつけちゃったんですね!まだ1mも走ってないのに。。。。

結局、来週もう一度行って、後方2本は再度交換するハメになってしまいました。。。
えー、もうね、ええ。大変めんどくさいですよ。ええ。


 本当は「グリルも変えようかなー」とか思ってんたんですが、コレはこれでいいような気がしてきている今日この頃です。。もう既に顔は純正設定じゃ存在しない形になっちゃってますし、オリジナリティは十分かなーと。

来週はいよいよ、ワコーズRECS施工後の1000キロ走行オイル交換になります。
RECSを施工するとオイルが劇的に汚れる(汚れを取るのだから当たり前ですね)らしいのですが、3000キロ未満のオイルが果たしてどこまで汚れているか!乞うご期待!!w

2015年12月9日水曜日

凄いよ!WAKO'S RECS!

シングルベール、シングルベール・・・
来なくて良いよクリスマス、でもやって来るよクリスマス。。。

はい、毎年心が荒んでいくジンです。

今日のネタは、先日施工したWAKO'S RECS。施工後ようやくまともに給油してデータが取れたので、その検証を。
まぁ、ぐだぐだ書いてもしょうがないので、とりあえず結果から。

施工前:13.06Km/L
施工後:14.28Km/L(+9.34%)

マジですか。。。ついに14キロ超えですか。。。

効果は期待以上

正直な話、ここまで効果があるとは思ってませんでした。今まであれこれと試し、エンジンを綺麗にする、燃費改善出来るガソリン添加剤なんかも試してみましたが、正直「う~ん」レベルでしたから。

参考までに、最近とっていたデータをすべてグラフにするとこんな感じ。

あ、オイル交換1回目は比較のために1年前のデータを引っ張り出してます。
なお、施工時に1時間近くアイドリング&空ぶかしをやっている関係上、比較対象データは12/3の週を無視して、その前の週と比較してます。
こうしてみると「何だ、大騒ぎするほどじゃないじゃないか」と思われるかも知れません。

ですが、注目していただきたいのはオレンジの線。
これ、測定時期の最低気温の平均なんですが、11/27の週以降、ガクンと気温が下がってるのがわかるかと思います。

実は11/27以降、朝5分以上暖気してから発進、かつ暖房の使用も開始してるんです。
一週間の暖気時間が毎日5分だとしても30分以上、しかも暖房も使用、にもかかわらず暖気も暖房も使わなかった時期を10%近く上回る燃費、コレって結構凄くないです??


結論『数字は正直』

 この手のエンジン洗浄といった施工は、「効果があった!」「加速が良くなった気がする!」なんて訴えてみても、所詮「結局どんだけあったのよ?プラシーボ効果(笑)じゃね?w」なんて言われるのがオチですが、とかく数字は誤魔化しがききません。
 今まで色々とアレコレ手を入れてきましたが、正直ここまで効果が感じられたのは納車直後のオイル交換くらいのもんです。
 もちろん、プラグを交換したり、アーシングを施したりとかなりアレコレやっていますので、それらの総合的な積み重ねで現在の燃費が実現出来ているのは、多分間違いないでしょう。
 それは一回目のオイル交換からの改善ぶりをみれば、おおよそ理解して頂けると思います。

 ですが、単体の施工・処置でここまで燃費が跳ね上がったのは、今回が初めて。いやぁ驚きました!
 施工にかかるコストは、車種にもよるかと思いますが、私のパジェロミニの場合、3000円程度でした。費用対効果を考えれば、決して高くは無いと思いますよ。

株式会社和光ケミカル
http://www.wako-chemical.co.jp/

こちらで施工して頂きました
RS-VICTORY
https://www.facebook.com/torigoe.victory/?fref=ts


注.本頁の記載は私個人の感想とデータを示すものであり、効果を保証するものではありません。

2015年12月8日火曜日

ぱじぇみーが我が家にやってきて。。。

久々に自分のブログ開いて。。。

おいおいおいおいおい。。。一体いつから書いてねぇんだよ!うぉい!

とか思ってます。ジンです。

ハイ、今回から私のネタになります新しい仲間。
パジェロミニ H56A 平成9年式モデルになります。私はぱじぇみーって呼んでます。

思い起こせばこやつを買ったのは1年前、10万キロ走行の中古車だったコイツを30万で買い、いざ走らせてみると、リッター5キロ行かないわ、エンジンはやかましいわと問題だらけ。

メンテされてなかったんだろうなぁと確信したのはオイル交換。あと3000キロは走れると購入した整備工場が言っていたそのオイルは、ドロッドロで、そのくせ粘度はほとんど残ってなくて、まさに泥水のような状態でした。。。

ここまで問題続きで、正直な話、さっさとこの車手放して新しい車買ったほうがいいんじゃね!?とか思ったんですが、10万キロも頑張って走ったのに、ロクに大事にされてこなかったこの子が何だかやたらと不憫に思えてきちゃったんですね。。。

そんなわけで、ありえないレベルでの大改造開始!
先ず既存のオーディオ系は全部交換、まぁカセットテープとまでは行きませんが、シングルスロットのCDプレーヤーでしたからね。

さらに完全にくたびれていた足回りのサスペンションを新品に交換!

 アーシングの線が相当ヘタっていたので、社外製の太いアーシング線を採用し、プラグ・ケーブル・イグニッションコイルもすべて交換。

 最後にワコーズのレックスを施工してもらい、現在に至ります。


結果
購入当初:5~6km/L
オイル・オイルエレメント交換・エンジンクリア施工:11.8km/L
プラグ・プラグコード・イグニッションコイル交換:13.4km/L
ワコーズ・レックス施工:現在データ収集中

カタログスペックがリッター14.4kmですから、10万キロ走った車としては大健闘でしょう。
さぁ、ワコーズのレックス施工でどこまで行くか!w

2014年10月22日水曜日

九州一周達成しました!のご報告と現状連絡

えー、お久しぶりです!ジンです。

ご報告というには随分と遅れましたが、自転車で九州一周、無事達成することが出来ました!

台風の直撃を二度も受け、かなり酷い道を走らざるを得ない状況にになった事もありましたが、
それを含めても、本当に素晴らしい旅でした。

一応、旅動画現在作成中で、よーやく半分といったところです。
HDDは腐るわ、CPUはしょぼくれてるわで中々難航してはおりますが、まぁ、気長に待って下さいw

ではまた!(・ω・)ノ

2014年9月11日木曜日

自転車で九州一周プロジェクト、開始します

お久しぶりですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
ジンです。

以前からTwitter上では告知していたんですが、

「自転車で九州一周」計画、いよいよ始動します!

いや、本当は結構前からちくちく準備だけはしてたんですけどね・・・w

とりあえず、ニコ動に準備編の動画をアップしてみました。
久々にPremire使ったら、操作をがっつり忘れててかなり手こずりましたが。。。

【準備編】ちょっと自転車で九州一周してみる
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24447959

良かったら、見てもらえると嬉しく思います。

※ここまで大々的に告知して、中止になったらどうしようか・・・(汗

2014年7月24日木曜日

父が亡くなりました[2014/7/22]

 朝になりました。5時くらいだったでしょうか、母がホールのほうにやってきて、私たち兄弟を叩き起こしました。
 何事かと思えば、歯ブラシを買って来い、だそうです。

 自宅に忘れてきてたんですね。まぁこんな非日常な出来事の最中ですから、仕方が無いのかも知れませんが。
 
 私が近くのコンビニまで行き、人数分の歯ブラシを買ってきました。
 ついでにと、栄養ドリンクも買ってきました。この状況で誰かに倒れられてはたまりませんから。

 9時30分くらいから、今日の流れについて説明を受けました。ですが、正直良く覚えていません。
ただ、親族代表挨拶は私がやることになったのだけは、覚えていました。

 玉串奉奠とプログラムが徐々に進み、いよいよ私の親族代表挨拶になりました。
 
 本日はお暑い中、お集まり頂き有難う御座います・・・・
 
 
 
 
 きちんと言えたのはここまででした。
 
 
 
 その先に「7月20日 7時0分に58歳でその生涯を・・・」が目に入ったとき、最後に話したこと、食事をしたこと、そして死亡診断を受けてから今日までのこと、何より、これを読み終わったら父の体はこの世から消えてしまうんだということ。
それらがごちゃ混ぜになって頭の中を駆け巡り、涙と嗚咽を抑えることが出来ませんでした。

 涙でかすんで用意していた原稿がろくに読めない中、これが私が出来る、父への最後の親孝行なのだと自分を奮い立たせ、何とか最後まで読もうとは考えているのですが、ちゃんとするという事がどういう事なのか、良く分からなくなっていたように思います。

 父が死んだ。言葉にすればなんてことは無いのですが、これを口に出して、声に出して言うことが、こんなにも辛い事だとは全く考えていませんでした。

 その後、嗚咽も絶え絶えに地区の方々への謝辞も読み上げ、椅子に戻ったのですが、その後棺を開けて花を入れるまでのところは、正直良く覚えていません。
 ただ、母に背中をさすられていたのだけは覚えています。
 
 気がついたら、棺を開けて花を入れていました。
 元々花が好きでしたから、たくさんたくさん入れました。
 
 庭で作っていたぶどうも、時期にはまだ早いとは思いましたが、ふた房入れました。
 本当なら、私が神奈川に一度戻る前に食べるはずだったおはぎも入れました。
 
 自宅で印刷してきた写真も入れました。帰省したとき、皆であちこち旅行して撮影した写真で、撮影者は私。カメラをされている方なら分かると思いますが、どこで、何があって、どういう気持ちでシャッターを切ったのか、全部覚えていました。
 父が撮影していたフィルム写真はネガが67ということもあり、焼き増しする時間はありませんでしたので、スキャナで取り込めるだけ取り込んで、それをプリンタで出力して入れました。

 皆が写真の裏に、父への手紙を書いてくれました。母が最初に始めたのですが、それが次第に広まり、従兄弟のお子さんまで書いてくれました。

 私は、書きませんでした。必要ないと思いましたから。
 私にとっては、撮り溜めた写真の一枚一枚がメッセージそのものでした。
 一緒に家族旅行に行って楽しかったこと、全然知らなかった風景を見れたこと、思うように撮影出来ずもどかしかったことなど、そんな思い出そのものであり、そのときの気持ちをしたためた日記と同じようなものでした。
 
 これ以上に言葉で書けることなんて、私は持ち合わせていないと思いました。
 だから、手紙は書きませんでした。
 
 棺にしがみついて号泣する母の背中をさすりながら、嗚咽をこらえるのに必死でした。
 
 いよいよ火葬場に向かう時間となりました。母が父の棺と一緒に霊柩車に、私と弟が骨壷と遺影を持って先導車に乗り込みます。
 
 長いクラクションの後、火葬場に向けて車が走り出しました。
 といっても、この道も通いなれたもので、馴染みのある道。父の仕事を手伝ったことや、釣りに行ったことなどが思い出されました。

 10分ほどで火葬場に到着しました。私は父の遺影を抱え、車を降り、母の乗る霊柩車を待ちました。
 外は、絶好の釣り日和といわんばかりの快晴で、空を仰ぎながら「天気でよかったね」と思いました。
 
 何が良かったのか良く分かりませんが、まぁ、雨降りよりは良いでしょうと(笑)。
 
 
 しばらく待つと、母の乗る霊柩車がやってきました。どうも途中にあった工事現場の片側通行に引っかかったようでした。
 
 皆が集まり、最後の玉串奉奠が始まりました。これで、本当に最後なんだと思いました。
 今度は泣きませんでした。涙はたまっていましたが(笑)
 
 
 玉串奉奠が終わり、父の棺が炉にうつされました。
 
 本来ならば、喪主が点火スイッチを押すのでしょうが、それだけはさせたくありませんでした。
 これ以上母一人に父の幕引きをさせるのは、あまりに酷だと思いました。
 
 だから、絶対にさせたくはありませんでした。
 
 なので、私と弟二人で、一緒にスイッチを押し込みました。
 
 
 目は、閉じませんでした。
 不思議と、何の感情も抱きませんでした。
 
 
 その後、斎場に戻り、精進落としの席になりましたが、料理の数が足りなかったりやらトラブルがあり、正直あまり感傷にふけっている余裕は無かったように思います。
 ただ、これ以上もう泣くまい、とは思いました。

 午後2時20分、お骨あげに火葬場へ戻ります。
 焼きあがってきた父の体は、とても小さくなっていましたが、元々骨太だったこともあり、とてもしっかりと残っていました。
 
 
 
 ただ、肺がんだった父は、それを訴えるかのようにがんのあった場所の骨は、痛々しい位に色が変わり、ボロボロになっていました。
 胸骨も、殆ど残ってはいませんでした。
 
 私と母二人で、最初のお骨をあげました。
 それから、弟と私で指示されたお骨をひとつずつ、あげました。
 
 その後は、火葬場に来てくださった親族の方々で、父のお骨をあげました。
 20人以上、いたと思います。皆さん、箸を手に父のお骨をあげてくださいました。
 
 最後に喉仏をおさめ、頭蓋骨で蓋をして、終わりました。
 本当に、本当に小さくなってしまったなぁと、そんなことを考えながら、遺影を抱えて斎場を出ました。
 
 
 その後、納骨のため、お墓まで向かいました。
 私と弟は皆とは違う道でお墓を目指しました。少し遠回りになっても、別の道でお墓に向かいました。
 
 皆より、神主さんより少し遅れてお墓に到着しました。
 何故遅かったのか?と聞かれて「家の前を通ってやりたかった」と答えると、誰も何も文句は言われませんでした。
 
 
 玉串奉奠の後、納骨となりました。
 あげたばかりの父のお骨の入った骨壷は、まだぽかぽかと温かかったです。
 
 骨壷は、私が入れました。
 お墓に骨壷を納め、扉を閉めました。
 
 これで、本当に、本当にすべてが終わりました。
 
 最後に自宅に戻り、お茶を振る舞い、ひとり、また一人と親族が帰っていき、ついに私と弟と母だけが残されました。
 少し遅れた昼食のせいもあり、夕食を少しだけとり、床に就きました。
 
 


 葬儀が終わって、2日が経ちました。
 私にとっては、父も母もいないのが日常の当たり前の光景でしたから、まだそこまで実感できていないのか、あまり普段の生活を送るうえで、落ち込んだりすることはそこまで無い様に思います。
 
 先日、病院から戻ったときの荷物を整理している中から、小さなノートというか、メモ帳のようなものを見つけました。
 紙のすみは何度も折られ、少し黄ばみかかっていたノートですが、そのノートには見覚えがありました。
 
 それは、父の病室の枕元に、ボールペンが添えられていたノートでした。
 闘病中、私は中を見たことはありませんでしたから、何を書いているのか気になり、ぱらぱらとめくってみました。
 
 
 内容は、6月ごろからの毎日の記録でした。飲んだ薬などが細かく書かれていました。
 「○月×日 天気 くもり」などと書かれていて「小学生の日記かよ(笑)」と少し笑いました。
 
 ただ、内容は日を追うごとに短くなり、最後は日付も満足に書かれておらず、ページが飛んだり、最後のほうに書かれたり、ノートの裏に書かれていたりしていました。
 
 「今日は調子いい」
 
 「痛くてたまらん」
 
 「○○さん、もうだめ」
 
 「ありがとう」
 
 そんな言葉が、ページをめくるごとに乱雑になっていく字で、綴られていました。
 特に一部の文字は、ギリギリ判別できるような状態で書かれていました。
 
 父はそこまで達筆なほうではありませんでしたが、子供からみても雑に字を書くことは決してしませんでした。
 痛い、きつい、辛い、そんな言葉を愚痴っぽくこぼしたことはあっても、弱気な言葉は何一つ家族には言わなかった父が、どれだけ辛い思いをしていたのか、痛いほど分かりました。
 
 幸い、そのノートをみつけたのが私一人であったこともあり、声を出して泣きました。
 誰に見られるわけでもない、そう思って、遠慮もせずに泣きました。
 
 母には、ノートの存在は伝えていますが、すべて事が落ち着いて、それから読むように言っています。
 でも、必ず読んでほしい、とも言っています。
 
 
 この一週間何があったのか、自分の中で整理をつけるためにと、コレをずっと書いてきました。
 綴っていく中で、フラッシュバックしてくる光景と、最後に父と過ごした時間が鮮明に思い出され、何度か涙したこともありました。
 
 22日の出来事を書き始める前に、何度も何度も、こんなに辛いならもう書くのをやめてしまおうと思いました。
 ファイルを閉じて、Delキーを押せば、ハイお終いです。このファイルが存在した事だって、誰も知らないのですから、誰にとがめられるわけでもない、だからこんなに辛いなら、もう書くのをやめてしまおうと思いました。
 
 ただ、最後に父と話をしたのは私なのですから、これを書けるのも、残せるのも、やっぱり私なのだと思いました。
 そう思って、ここまで書いてきました。
 
 
 事務的な手続きやら、まだまだやる事も多く、毎日奔走している日々ですが、何とか立ち直りそうです。
 弟は弟で、何か明るい話題を提供したいと、落ち込む祖父母と母を元気付けたいと思ったのでしょう。
 
 あと5年以内に結婚してみせる!と宣言していました(笑)。
 
 それが本気かどうかともかくとして、葬儀後、はじめて祖父母の笑顔が見れた瞬間でした。
 
 
 まぁその煽りが私にまで来たのはチト困っておりますが(笑)。
 
 ただ、孫も抱かせてやれず、逝かせてしまったのは、それはそれでやっぱり後悔もしています。それはきっと弟も同じなのでしょう。だからあんなことを言ったのかな、とも思っています。
 
 元々趣味人間な私ですが、そろそろ本気で身を固めることも考えなければいけないのかなぁ。
 でもそもそもこんな趣味人間についてくる人なんか、いるんかいな(笑)。
 
 ただ、いずれ来るであろう母のそのときに、全く同じ理由で、孫を抱かせてやれなかったことで後悔はしたくない、と思っているのも事実です。それは、後悔という形で、父が私に最後に教えてくれたことのひとつである、とも思っています。
 
 今回、いろんな事を学びました。
 仕事一辺倒で無かった父、多趣味だった父、好きなことを好きなようになっていた父。
 
 でも、まだまだやりたかった事も多かったことと思います。
 
 だから、私も惰性で毎日を過ごすことはせず、やりたいと思ったことは本気でやろうと思っています。
 それは、仕事であれ、趣味であれ、多岐に渡りますが、端から諦めていたことも少なくありません。
 
 でも、やりたいんだったら、だったらやろうと思っています。
 
 ここ数日の出来事を、そのときの感情だけで、とりとめもなく綴ってきました。
 乱筆乱文ではありますが、メッセやメールで励ましてくださった方々への、近況報告とさせてください。
 
 
 次回からは、またたっぷりこってり趣味な内容が載った、ダメ人間満載の日記になると思いますが(笑)

父が亡くなりました[2014/7/21]

 通夜の日になりました。正直、朝起きて父の棺を見ても、顔を見ても、全く実感が沸きませんでした。
 その間にも、昨日来られた方がご焼香に来てくださいました。母は涙も見せずに挨拶していました。

 私といえばその間に、遺影に使う写真と、葬儀中に流す写真を用意していました。
 といっても、帰省するまでこんなことになるなど、全く予想してはいませんでしたから、写真など用意はしていませんでした。

 なので、実家に置いていった古いXPマシンや、外付けHDD、もう使わなくなったノートPCなどをひっくり返し、
あるだけの写真をかき集めました。
 集まった写真は延べ25枚。その中からどの写真を遺影にしようか、という話になり、親族一同集まってみんなで見ていきました。
その中の一枚に、愛犬を抱いて、笑っている写真がありました。
 父の格好と言えば昔から容姿にはあまり気を使わない人でしたから、髪はボサボサだし、服装は固まったセメントのこびりついた
作業服に、黄ばんだタオルを首にかけているという、お世辞にも立派とは言えない格好でしたが(笑)、屈託なく笑っているその顔と
作業着に身を包んでいる姿がいかにも父らしいということで、満場一致でその写真を使うことに決まりました。

 その後、私と弟二人で、父が入る予定の墓を掃除することを思いつきました。別にどちらから言い出したわけでもありません。
お墓への道は、先日草払いがあったのでしょう、枯れた草と葉っぱが大量に積もっていました。持ってきた箒で綺麗に掃き、
一時間ほどかけて掃除しました。

 午後3時くらいだったでしょうか、葬儀社の方が父の棺を迎えに来られました。
 これでもう、父が我が家に戻ってくることはありません。
 


 葬儀社の方が運転する霊柩車は、クラクションを鳴らし、ゆっくりと斎場に向かい始めました。

 午後4時、斎場に到着し、通夜の段取りを説明されました。
 しばらくすると、私の友人が鹿児島から、父の訃報を聞き、駆けつけてくれました。

 事後報告でも構わないかなーと思っていましたから、通夜に顔を出してくれると聞くまでは、まさかわざわざ鹿児島から宮崎まで
来てくれるとは思っていませんでした。どう言葉をかければ良いか分からない、と言ってくれた友人の、そんな優しさに心から
感謝しました。

 午後6時、通夜が始まりました。後から後から、線香をあげに来てくださいました。私が知らない方も沢山いらっしゃいました。
 その数は200人以上でした。当初お返しの品を150もあれば十分であろうと構えていたのですが、途中で追加してギリギリと
いう状況でした。

 祖母の手をとって泣いてくれる方
 母と一緒に父の顔を見て「寝ているようにしか見えない」といって涙してくださる方
 父と20年来の付き合いのある方

様々な方が来られましたが、皆一様に一緒に悲しんで下さいました。

 しばらくすると、突然土砂降りの雨になりました。天気予報では雨が降るなど出ていませんでしたから、驚きました。
 斎場にいても、斎場の屋根をたたくのが分かるほどの雨でした。

 あとから聞いたのですが、その雨は斎場周辺と母の実家の近くだけしか降っていなかったそうです。
 斎場からほとんど距離のない従兄弟の自宅周辺(2キロも無いです)も、全く降っていませんでした。
 
 母と「あの雨は、涙雨だったんだろうね~」と話しています。

 その日は21時前後で通夜が終了し、私たちは斎場に泊まることになりました。


 母は祖父母と従兄弟と一緒に別室で休んでいましたが、私たち兄弟は父の棺が置かれている、ホールの方で休むことにしました。

 しばらく取りとめもない話をしていました。
 父の遺体がすぐそばにありましたが、線香をあげるたび、顔をみても「ただ寝ているんだ」としか思えませんでした。
 化けてでもいいから出てきてくれないかな~とも思いました。父と話したいと本気で思いました。

 もう少し現実を見るべきでした。明日には父の体はこの世から消えてしまうことを、もう少し考えるべきでした。
 そのことを実感したのは、翌日、式の最後の最後になってからでした。